時を超えた竜宮物語
矢澤栄治
竜宮帰りに「万宝神書」のお土産を拝したことが縁で、〝海から山〟は寝覚の床に棲み処を仮宿とした浦島太郎。
他方、赤沢自然休養林には「美林ちゃん」の精が棲むとの、まことしやかな囁きがこぼれし上松町の’12盛夏。
互い譲らぬ人気沸騰の焦点は、〝ふたりの関係とその行方〟ーーさてその先には、いったいどんな運命の真実が秘められていたのでしょうか……。
これは未曾有の時空の刻印を背景に、思わぬ歴史が木曽上松町を舞台の終着駅に解き明かされるという、世にも不思議な、かつ切なくも愛おしい物語です。
出奔
諸国漫遊で何でも物知りになっていた〝博学太郎〟です(この時すでに三百歳の翁)。その浦島太郎に、たまたまとはいえ見初められた信濃は木曽上松の寝覚の床とは、それはそれは素晴らしい稀有の景勝(河岸)の里でありました。
そのうえ、上松は寝覚の床だけではなく、もともと太郎翁が関心を寄せていた神社の祖の数々や、そこに暮らす村人衆の素朴さや気さくさまでみんな大好きで、しばしの滞在どころか、ずっと棲みついていたのでありました。わけても臨川寺前身寝覚山堂宇や境内ではことのほか満たされ、まさに我が家の庭とばかり朝な夕な浸っていたのでした。
そんな太郎翁が、前触れもなく急にどこかに行ってくると、村いちばんに親しい五平爺に告げて、寝覚の里を飛び出したのでした。帰りの算段の当てもない、生来の気まぐれ太郎・草鞋履き替えの行状でした。
五平とは、太郎が〝爺と婆の家で作る粟餅がいちばんうまい〟と褒めちぎった、後の「五平餅」起源当主のことです。時代は、今から一〇七〇年前の、天慶五年(942)のことでした。
実は太郎翁は、京の朱雀天皇ととても仲が良かったのです。きっかけは、くだんの巻物「万宝神書」をあちこちで繙いていて、その面白おかしさが評判を呼び、いつしか朱雀天皇の見聞眼に留まり(特に〝長寿延命秘薬処方書〟のことなど)、それ以来というものの、いつでも往来の許される特別の間柄に成就していたからなのです。
太郎翁はどんなことでも興味を抱いたり、より関心を深めては博識を高めるため、評判が評判を呼んでやがてはその奇想天外さまでが大いに受けて、いつぞや朱雀天皇のみならず、皇位系統累々にまで重宝がられるようになっていたのでした。
何分、齢を重ねぬ翁ですから、〝有難太郎翁様〟が永遠の実像で、いかにも不思議で奇特な存在であったわけです。
一方、刻を葬り去られた上松村の五平は、哀しくもとうの昔に亡くなっておりました。「太郎はどこいった……何時帰ってくるずらに……」と、大方の終日を寝覚山にぬかずいては、時に太郎の釣り用の竹竿をなでながら、寂しさをかみ殺して晩年を送ったといわれています。
京と姫
〝万年青年〟の太郎翁が完全に歴代の皇室任えとなって、朱雀天皇を基点にちょうど二〇代・二五〇年の歳月が流れていました。気の遠くなるような時間の大きさと隔世です。
いかにも、歴史はいたずらにも宇治川の合戦を足跡とした、高倉以仁王(後白河天皇第三皇子)終焉を記録の治承四年(1180)を指していました。
あまりに哀しい運命のおとずれとしか言いようがありません。太郎翁は、ひそかに想いを寄せていた以仁王の御子・姫君(一五歳)が、逃げ落ちたとも噂の幻の父を追いし〝木曽谷追行〟を知ったのでした。
即座に「あってはならない、無謀な!」と、怒り狂ったように叫びました。
姫君もかねてから宮殿に出入りする太郎のことはよく知っていましたし、また印象からも「風変わりなうえに齢も定かにあらねど妙に名残折々惹かれし者なれど……」と、そっと心で語らっておりました。たしかに、ほのかな想いも、一五のつぼみから少しずつふくらみかけていたのでした。
けれど、これまで太郎と姫君が言葉を交わしたことなど、一度としてなかったのです。
なおも太郎の苦衷は病めました。
「頼政殿ご自害のあと父君は流れ矢で尽きておられるのだ。それどころか姫君御身がどのように追手必定をかわせようほどに……無謀だ、あまりに一刻がすぎる……。」
しかし、太郎翁には早々悲哀の現実が待つ因果の子細が透かし読めて、かの万宝神書で修得の「飛行の術」すらも、首をタテの、万に一の思いさえ及ばなかったのです。それよりも、諦観の極みからか、悲しさが尖って痛恨の命運を呪わずにはいられなかったのでした。
ーーよりによって木曽谷へ……。なんと非情な今生の行く末か。果ては何処に……。せめてぞや、木曽姫に化身恵みの御魂あれ……。
式年遷宮
太郎翁がそれから伊勢神宮の五十鈴川沿いに棲み処を留めるようになったのは、姫君と哀しい別れをしてから少ししてのことでした。ころは、その後の安徳天皇から後鳥羽天皇変遷二年目の、寿永三年(1184)のことでした。
決して京のみやびと天皇・皇族の世界に飽きた訳でもなかったのですが、何故か姫への想いが募ると、その霊を鎮めることをもって吾れ行く末の大切な行と心して、つまりは天皇(=御子)総代たる〈天照大神〉拝殿往生こそが全てであると悟ったからだったのです。それが皇室の祖神として伊勢神宮に祀られていますこと、太郎翁には神書教典以前の修身ではありました。
真剣で、永い供養の刻が、四季の暦を幾重にもめくりました。
ーーー
どれくらい歳月が経ったころだったでしょうか。太郎翁はあることに気付いていました。
とりとめもなく懐かしいような、無性に心が揺すられ胸の高鳴りまた禁じ得ない、かつどこか切ない複雑な心根にいざなわれる神宮祭事が、忘れたころに執り行われていたことへの、熱い動揺です。
それは、実に二〇年に一度社殿を造り替える大祭の、壮大なつづら折りの歴史でした。たしか、四たび繰り返されたような感動が過ぎり、いつしかそれが悠久の波調から敬虔の念となって太郎の脳裏をかすめたのでした。式年遷宮と知りました。持統天皇は朱鳥五年(690)からといいますから、確かにもう少しで元号の始まり(「大化」・645)に遡れそうな歴史の偉業です(神宮として永遠性実現の司り)。
そして、そのことが何故太郎翁の心根を奪うしらべに映し出されたかといいますと、何と御用材である御神木とは、五平爺の元から突如おいとまして三二〇年超になる、あの木曽の上松は赤沢の深い深い森から調達されていたと判ったからなのであります。
衝撃でした。万感押し寄せ、たまらず太郎は愕然としてしまいました。
……第二の郷里のような上松を出奔して三二二年にもなること、いま御神木五七〇年来という「上松」の偉大さに打ちのめされたこと、あのいちばん親しかった五平爺への不義理さえ省みなかったこと、そして姫君の非業を悼んで冥福を祈りこそすれ、命日から八四年の歳月を数えるのに、せっかくの飛行の術を利して行方目視を遂げるべく、篤心から弔いへの勇気すら出でずしてここまで至ったこと……
次々と悔根と焦燥の波状が去来、太郎の思考は影を潜めるどころか、茫然自失の体から我れをも忘れてしまいそうな、自意識の利かない闇に陥っていくのでした。わずかに不覚を思い、辛うじて唯悄然と立ちすくむと、今度は自らの喪失と体躯のどこからともなく、死相の走るのをかすかに覚えるのでした。
冷たくもない悪寒がしたかと思うと、得体の知れないかげろうと一緒に、すべてが、すーっと遠くにかすんでいく気がしました。
文永元年(1264)の秋も深まるころでした。
寝覚竜宮
ぼくは、浦島太郎翁です。
もう二度目の世界からも絶望的かと諦めた、あの文永元年からの生還でした。実に、ずっと気を失っていたのでした。自分でも信じられないような驚きですが、何と気がついたら昭和三九年(1964)の一〇月でした。忘れもしません、世界中が東京オリンピックで沸いていました。つまり、ちょうど七百年も眠っていたのでした。
ハッと目覚めたら、そこは寝覚だったのです。やはりぼくにとっての真の故郷とは、日本は木曽の上松だったのです。神さまがきっとそう取り計らって、もう一度だけ格別の運命をくだされたのです。そう思ってその後また生きて参りました。
よく噂で〝年齢は三百超え?〟とか言われていますが、〝再々生〟のその時点ですでに一三二〇歳を超えているのです。本物は、身体こそ半分以下に減るという不可解現象も、その意味ではむしろ大昔より若返ったことまた事実なのですが……。なお、住まいはもちろん寝覚の床。ぼくの永遠の竜宮城です。大字寝覚の床一丁目一番地が住所です。
ただし、ぼくの存在条件は前世とかなり違っていました。まず、ぼく自身の姿は人の世にみえないということです。ぼくからは総て分かるのですが、いわゆる〝交流〟が利かないのです。でも、三たびこの世界に暮らせるようになったので、これ以上の果報はありません。世界をいくつ合わせても、ぼくが一番の幸せものです。
次に変化があったのは、昔々に竜宮城のお土産でもらっていた、弁財天像と万宝神書の巻物がなくなっていたということです。特に万宝はかつて京の天皇相手に使ったり(長寿秘薬処方)、飛行自在秘術に活かせて専ら津々浦々遊び回れたのですが、だけどそれらは現在の自分に必要なくなったということです。そうです、上松や木曽広域がぼくの未来永劫のポジションで十分本望なのですから、全く問題ありません。いかにも、人間社会と同等に世にあることだけで本懐です。おまけに歳をとらないのですから……。
さて、大切な話がありました。申すまでもありません、姫君のことです。
姫の命日から七八四年が経っての現実話ですから、とっくに関係のない〝神話〟と思われるかもしれませんが、ぼくは目が覚めて真っ先に姫のことを思ったのでした。何よりも、最期のことを確かめて、そこが本当に「木曽谷」であるなら、ぼくはそこでずっと弔っていかなければいけないと、そう心に秘めてきたからです。確かに七百年もの喪失状態でしたが、全ては〝仮眠〟の、長いようで短い生けし期間だったのです。
昭和三九年の晩秋から、早速痕跡の見当を推して捜し求めました。当然町内を優先して、せっせと歩き回りました。すると、歴史や伝説と関わってくるせいか、面白いことを発見しました。
例えば、大宮神社などは天照大神崇拝が直接の一端とあって、懐かしの伊勢神宮と大いに関係ありを悟って、それは嬉しかったですし、あるいはまた、荻原での「隠れ滝」お姫様伝説に際してなどは、一瞬〝もしや姫君のことでは!?〟と、それはまた鼓動がひどく騒いだりと、とにかく上松は散策して収穫になることばかりで、かつての一〇二〇年大昔の姿とはとんでもない比較にならない差であると痛感、もってどこに行っても瞠目に余りあったのであります。
と、そんなぼくに胸が弾けるような至上の幸栄が訪れたのでありました。翌昭和四〇年のことでした。
春を待って、探索範囲を赤沢方面に足を延ばしますと、何と小川の里の向こうに、「姫宮神社」という案内が見えるではありませんか。これには吃驚でした。心臓が止まるくらい仰天しました。と同時に、目を疑うくらい驚喜して、走ってはすがるように凝視の上、確認しました。
歓喜は夢ではありませんでした。発見は真実でした。積年の重い負荷と苦しみがいっぺんに晴れました。涙が出るくらい嬉しかったです。姫君がここに眠っていると、歴史の真相が明らかになったのですから。七八五年前からの思いが遂げられると分かったのですから……。
姫君がここに到った経緯と末路は、『小川入の伝説・姫渕の悲話』として町では貴重な史料と位置付け、情報に盛っておられることをその後拝しましたが、これまた有難い信心の実証に足るお務めであると、感服の極みをもって感謝しているところであります。
それにしても、ぼくが慣れ親しんだ大昔からのここ寝覚竜宮の里は赤沢に、よもや姫の魂が永眠しておりましたとは………。何と因果で、そして有難いことではございましょうか。
このぼくの大層な悦びは、改めて寝覚の五平爺の墓前にも頭を垂れたところであります。爺にもいっぱい感謝の義はありましたが、いまは一緒の軒端で野の花を春から冬の半ばまで添えさせてもらっています。爺も安堵して喜んでくれていると思います。ぼくには過ぎた、親のような方でした。そして、婆との粟餅は本当に生涯忘れられない、木曽いちばんの〝にんげん味〟でした。今でいう五平餅、五平爺と婆こそが生みの山の講のようなものです。あわせて遠い遠い千年以上もの昔に、その歴史に感謝です。それに尽きます。
一つ、心残りもあります。昔、姫君が木曽谷へと知ったとき、どうか魂の昇華をもって木曽姫にでもなって、健気でいてくれたら救われるものをと、一途にそう願って合掌したものでした。ですが、その消息解明の昭和四〇年から、もう半世紀も近い四七年が過ぎて平成二四年(2012)となりましたが、姫君はずっとじーっとしたままなのであります。
この間、ぼくも木曽の四季に合わせて、いえそれ以上に弔いのすべを怠らずにいるのですが、どうも姫は少しも外界への素振すら呈しません。それがまた逆に木曽姫自身と化したようで姫君らしいのかもしれませんが、思いようで、ぼくの心奥にはそんな姫がいささか不憫の像に跳ね返ってならないのです。果たしてこのまま成仏できないような、不穏な侘びの幽寂また身につまされまして……。
幸い町や集落の皆様衆には、現世も前世も分け隔てなく万象尊厳のご慈悲を常と賜りますので、甘んじては平身低頭、かつ安息の往生ですが、何分にも人知の限りを超えての開明の条理から、時に沙界にあって見えなくてもよいものまで透かしてしまうこともあるのでございます。もって、唯姫君の真の解脱を念じ、向後とも寝覚竜宮に恵まれて、よきことだけを許されたいと切に心を平たくしている次第です。
そんな果報の象徴でしょうか、つい最近のこと、何と赤沢自然休養林に棲めし姫君に、『美林ちゃん』とご命名くだされたと町の情報より存じ得ました。京から上松の〝姫美林〟ですか……。
何とももったいないような、すべては過分な祝着に存じます。まさしく美林ちゃんは京の姫君・姫渕の化身、そうです天女でございます。
ーーまぎれもなく、上松町の明るい未来が見えてきたようです。ぼくもまた、至福この上なく、謝してとこしえに寝覚竜宮にて、元気な一町民でありたいと思います。合掌。
ひのきの里の夏まつり
平成二四年七月二八日(2012)
今年もまた、上松町のひのきの里の夏まつりがやってきました。いつになく盛り上がり、華やいでいる気がします。今年の夏は格別に暑く、そのせいか涼を求める家族連れも多く、時間に連れてそれは沢山の人出です。
木馬引き大会や御木曵き、さらに薄暮からの大花火大会が夜空を焦がして、ムードも最高潮に達していました。
「来年はいよいよお伊勢さんも式年遷宮でえらいことだが、上松も御神木で御木曵きも始まっとるしで、いろいろと大変だに……。」
「もう二〇年も経つだかや、そういやぁ、六二回とか言っとったなぁ。おらも歳とるってもんだに。」
そんな会話も聞こえました。
ドドーンと、また一段と大きな花火が夜空に打ち上げられました。
会場の広場では、たっぷりの音響効果にもそそられて、木曽踊りが始まっています。大きな輪が一層賑わい、町の良民が一体となっての、上松町にしかない真夏の祭典・ひのきの里まつりが繰り広げられています。
あるいは、近隣や遠来からの観光客も足を運び、目を皿のようにして、地元ならではの伝統文化の妙に魅了されているのかもしれません。
周りでは、思わず嬉しくなるような出店の数々が屋台を並べ、子どもを中心に賑やかな人気スポットとなっています。まさに子どもからお年寄りまで、踊る人、観る人、酔いしれる人と、文字通り総ての人たちがそれぞれの万感を満喫して、共有の真夏の一夜を楽しんでいるのでありました。
と、その踊りの輪の端っこに、いささか見慣れぬ影絵のような、不規則に舞う不思議な動きがあるではないですか……。
よくよく目を凝らしてじっと見透かすと、何と何とそこには、太郎ちゃんと美林ちゃんが仲良く手をつないで、可愛い振りで踊っているではありませんかーー。それも、ふたりの胸には「太郎ちゃん」「美林ちゃん」とくっきり記された、とっても大きな名札が付けられていたのでした。
さらによく見入ると、太郎ちゃんと美林ちゃんの左と右の手に、それぞれ手のひらよりはるかに大きな五平餅がしっかり握られ、しかも、その至近の屋台群の隅っこには、ふたりを見つめてにこにこ笑みながら、五平餅を焼く、腰の曲がった五平爺と婆の姿があるではありませんか…………。
いったい、どうしたというのでしょう。こんなことって、夢物語のような現って本当にあるのでしょうか。
間違いもなく、去年までの舞台には認められなかった、異次元の光景です。いえ、もしかして、太郎翁だけなら信じきる願いを一途に秘め、それまでの一夜にも顔を出して、あるいはさがしものをしていたかもしれません。
でも、そのことも今宵のことも、上松町の人だって誰一人として知ることはなかったのです。
いま、はっきりと聞こえました。太郎の声です。
「天に、とどいたね」
「はい。うれしいです」
姫君、いえ美林の震えるようなお返事でした。
しわしわの五平爺の両手が、もっと大きく震えました。
木曽の短い夏の一閃が二対の影絵の泪をくっきりと照らしました。